2023年9月 vol.262

2023年09月08日

 9月に入り朝晩は幾分涼しくなり、屋外の主役は蝉しぐれから虫のオーケストラへと代わりました。

 

 それにしても、今年の夏は全国的に記録的な猛暑に見舞われ、比較的涼しいと言われるここ仙台でさえも、22日連続の真夏日を記録しました。仙台の先月の平均気温は28.6度で平年より4.2度も高く、正に記録ずくめの夏となりました。

 

 そして、この暑い夏、東北を熱狂の渦に吞み込んだのが甲子園での東北勢の活躍です。ベスト8に3校が食い込むなど躍進が目立ちました。一昔前までは、西高東低と言われてきた高校野球のレベルも、多数のメジャーリーガーを輩出するなど、今や東北は野球王国になりつつあります。中でも、昨年の優勝校仙台育英高校の活躍は一際目を引くものがありました。惜しくも夏連覇の偉業こそあと一歩のところで潰えましたが、追われる立場での準優勝は大変に価値のあるものだったと言えます。そして、賛否論争を巻き起こした決勝での応援の在り方には多くの同情の声が寄せられましたが、それは一生懸命プレイした選手達が望む声ではないと思います。むしろ、最後まであきらめない姿勢と試合後の選手、監督の言動こそ真の王者に相応しいものであり、宮城の誇りとして後世に語り継がれることでしょう。

 

 さて、今年9月1日で日本史の1頁とも言える関東大震災から100年の節目を迎えました。近年では、東日本大震災から日本列島は地震の活動期に入ったとする見方も多く、列島各地は大規模な地震に見舞われ続けています。首都直下地震や南海トラフ地震などの発生についても既に多くの識者が警鐘を鳴らしてきましたが、備えあれば憂いなしです。情報化社会の一方で人間関係が希薄となった現代だからこそ、過去に学び多くの情報を共有すべきではないでしょうか。

 

 今回は、関東大震災について少し振り返ってみたいと思います。遡ること100年前の大正12年9月1日11時58分に相模湾北西部を震源とするマグニチュード7.9の海溝型地震が東京、神奈川、千葉、山梨などの地域を襲いました。その揺れは広範囲に及び、北海道や中国四国地方でも揺れが観測されています。近年のフィルム再生技術により当時の映像がカラーで蘇り、その被害の甚大さを今に伝えています。

 

 地震による直接的犠牲者の数は、およそ10万5千人で、そのうちの9割が焼死だったと言われています。密集した木造家屋が所狭しに立ち並ぶ当時の東京市は、不運にも昼食の時間帯ということもあり、火元と台風余波の強風が重なり多くの火災が発生し、あたりは火の海と化したのです。当時の映像では、地震直後に大八車などに家財道具を積み、逃げ惑う人々の混乱の様子が残っています。そして、無情にも避難した人々の安堵を一瞬にして地獄絵図へと変えたのが火災旋風だったのです。

 

 現在、慰霊堂が建つ墨田区の都立横綱町公園は、当時は軍服を作る工場の移転に伴い、公園の整備が進められていました。5万㎡にも上るその広大な敷地は、被服廠跡として近隣住民の間でも「何か災害があった際は被服廠跡に」が浸透していたようです。地震発生後に、被服廠跡に避難した住民の数はおよそ4万人。周辺で発生した火災による火の粉は隅田川を通った強風にあおられ、避難のために持ち込まれた布団や家財道具などが燃え草となり、強大な炎の竜巻と火災旋風が一気に被服廠跡を飲み込んだのです。ここに避難した3万8千人もの尊い命が失われ、鎮火には地震発生から2日を要したというのですから、当時の惨事がどれほど大きかったのかを物語っています。

 

 内閣府によると、関東大震災での全壊・全焼家屋は約29万棟、経済被害は当時の金額にして約55億円とのデータが公表されています。当時の国家予算が14億円、経済被害額はGDP比37%とされていますが、近年の東日本大震災の経済被害はGDP比3%相当ですから、比較しても関東大震災が国家の根幹を揺るがすような危機だったことを読み解くことができます。

 

 100年前に比べ、法整備も技術も進み、建物も公共インフラも格段に良くなっていますが、他方では高層ビルや地下街、そして人口密集など、当時にはない環境下に我々は身を置いて暮らしています。震災から100年という契機が、それぞれの地域でそして家庭や職場でも災害に備える機会となることを願います。