2012年3月 vol.125

2012年03月10日

 思い起こせば、あの日から1年。昨年の3月11日、東北関東地方を襲った巨大地震と大津波。そして、福島第一原発事故等、各地にその大きな爪痕を残した東日本大震災。あの突き上げるような激しい揺れに多くの人々が日本沈没を連想したであろう恐怖の瞬間だ。その後、少しの時間をおいてやってきた暗黒の大津波に街は一瞬にして飲み込まれた。この日、一瞬の判断や行動が明暗を分け、1万5千人以上もの方々が犠牲となり、未だに3300人以上の方々が行方不明となっている。建物の被害は数十万棟。人間は今年この日を区切りの1年と位置付けるが、犠牲者や遺族そして自然の営み自体に区切りなど存在しない。


 私の中で震災の恐怖は、やがて脱力感や絶望感へと変わり、経験のない感情と向き合いながら、物件の安全やお客様の安否確認に奔走した記憶が途切れ途切れに蘇る。あの絶望の淵から驚異的なスピードで復興の光が見えた。ガレキが回収され、空港や駅、高速道等のインフラとライフラインが復旧し、次第に街には灯りも戻った。しかし、それは現地復興が可能な地域の話であり、未だ復旧の見通しさえたたない地域も数多く存在する。今もなお、故郷を離れ7万人以上の方々が県外で避難生活を余儀なくされているが、仮に港湾や道路が整備され街が復興しても人々が戻ってくる保証はない。過疎という構造的問題は無視できないからだ。
 

 悲喜交々。被災地では、復興の使命を果たそうと多くの企業家や商店主が再建を目指している。しかし、一旦解雇された従業員は簡単には戻ってこない。被災地から離れた方もいれば、手厚い保護のもと働かずにして生活できる環境にどっぷりと浸かってしまった人もいるだろう。義援金や保険金でも明暗が分かれた。家族や家を失った方にとっては慰めにもならぬお金も、立場が変われば大金となる。必要なところには予算が回らず、不要なバラ撒きで潤う者もいる。皮肉にもそこには制度の矛盾が存在する。そして、復興特需を狙い被災三県には様々な者達のそれぞれの思惑が交錯する。ピンチはチャンスとばかりに人・モノ・金が集まるこの街の賑わいは、今日の日本にとって異様ともとれる光景だ。
 

 もうひとつ、復興の妨げとなり被災地に重くのしかかっているのがガレキ処理だ。現地の処理施設だけでは20年もの歳月を要するという。多くの自治体が受け入れを躊躇する理由が放射能問題だが、安全であることが確認されていながら遅々として進まない。一部の反対意見に耳を傾け過ぎるあまり、九州のある自治体では、首長自らが受け入れを公言しながら一転して受け入れを辞退した。心無い市民の圧力に屈した形だ。対照的だが、静岡県島田市では、市長が率先して受け入れを誘導し、多くの反対を説得というよりはねじ伏せた格好だ。市長は後に次のようなコメントを残している。「賛否をとったら反対が多くなるに決まっている」。「被災者の苦境を思えば、援助できるものが援助するのは当たり前。トップは腹をくくって、ガレキを受け入れるべきだ」と。東北以外の自治体での受け入れは東京都に続き二例目。トップのリーダーシップに敬意を表したい。
 

 みんな必要なことは分かっている。しかし、自分がその役割を担うとなると話は別である。
 

あの震災を乗り越えた大きな原動力に自己犠牲や助け合いの精神があったはずだ。あれから1年、「絆」は大義だけがひとり歩きし、単なる気休めの言葉になっていないだろうか?あの日おきた事実が人々の記憶の中で風化しないことを願いたい。