2010年8月 vol.106

2010年08月10日

 東北の夏祭りのフィナーレを飾る仙台七夕祭りも今年は雨に見舞われることもなく、華やかな宴の幕を閉じました。立秋を過ぎたと言うのに各地では連日厳しい暑さが続いております。皆様熱中症には十分にお気をつけ下さい。


 先日、私共が所属する宮城県宅地建物取引業協会が本部研修会の講師としてお招きした方が、このほど読売テレビを退職されることが決まった辛坊治郎氏でした。氏はその講演の中で、100歳以上の高齢者数の信憑性について疑問を説いておられましたが、奇しくもそれから数週間ほどで、行方不明高齢者の実態が浮き彫りとなり、そのニュースが日本中を駆け巡ることになりました。正に超高齢化社会、我が国の歪みを露呈するようなニュースでした。今日はこれに少し関連することについて触れてみたいと思います。
 

 中国には客家という漢民族が存在することをご存知でしょうか。そのルーツは古代中国の王族の末裔と言われています。歴史上、戦乱から逃れるため移住を繰り返してきました。その客家民族の一部は古くから山間部に土楼を作り、一族がまとまって生活をともにし、外部の襲撃から身を守りました。有名な福建土楼は円形の集合住宅で、世界遺産にも登録されています。この要塞のような空間に村を築き、限られた一族が何百人も一緒に生活を送ることで、客家の規律を重視する気風が育ったと言われています。土楼の中では、他人の子供も自分の子供と同じように叱ります。また、住人同士が活発に議論をする習慣があります。これも少ない空間に多くの人々が支え合い暮らして行く上では必然的なことなのでしょう。その規律正しい教えの中で客家民族からは多くの偉人や経済人が輩出されているそうです。客家の教えに「事を起こす前にまず人間であれ」ということわざがあるそうです。何となく想像できると思いますが、物事の判断基準は事の善悪であると説いているのでしょう。
 

 このような規律やコミュニティは、本来我が国が一番大事にしてきた部分であり、国民性であると言っても良いでしょう。ところが、先の行方不明高齢者などの事件は、近所付き合いが希薄になっている証拠でもあり、家族の責任やモラルの低さには首を傾げざるを得ません。子供は大人の真似をして育ちます。隣人同士のモノの貸し借りや助け合いなどの日常の中に礼節を知り、そこから多くを学び応用力を身につけます。ところが、周囲にはそのような機会が年々少なくなっています。
 

 また、年々増加の一途をたどる児童虐待の数についても、本来、無条件に愛情を注いでくれるはずの親が子供を虐待し死に至らせたり、親の最後を見届けるはずの子供が、年老いた老人を見捨てたり、そもそも人間としての最低の義務を果たしていないのです。我々がこれから経験するであろう超高齢化社会がもっとも必要とする助け合いの精神は薄れ、隣人が誰であるかも分からない。ちょっとしたことでも個人情報の壁が障害となり、行政も周囲も互いに見て見ぬふりをする。
 間もなく我が国は終戦記念日を迎えます。戦後の日本の復興は、諸外国からの支援もさることながら、国民全体の意識が同じ方向を向いていたからに違いありません。高度成長を遂げ、バブルを経験し、先進国の仲間入りを果たした我が国は、経済的豊かさと引き換えに心の豊かさを無くしてしまったのではないでしょうか。確かに個人の経済格差は広がっているかもしれません。しかし、飢餓に苦しむくらいの人はそう多くはおりません。それだけ国が最低限の生活を保障しているからです。それにもかかわらず、心の貧しさが人々を卑屈にさせていないだろうか。かつては自らを謙遜し他人を尊重し、礼節を重んじてきた日本人。その美しい心の継承こそが未来の子供たちへの財産だと思うのです。